我々の失敗は
分かりきってることをまとめずに書きましょう。
さて、現在の自分に満足している人間はどのくらいいるのでしょうか。
うーむ。
自分に満足、とはなんなのでしょうか。
おそらく、
自分で手に入れたものと
それを手に入れた自分
この両方のことが好きだわー気に入ってるわーという人を
現在の自分に満足している人間、というのでしょう。特に裏付けはないですけども。勘ですけども。
まぁでも話が進まないのでこれが本当だと仮定します。あととてもふわっと表現をしたので補足もしときます。
「自分で」「手に入れたもの」と表現しましたが、
これは己の意思で手に入れようとして手に入れたもの全てのもののことです。エヴリシングなのです。
PS4が欲しい。お金が必要だ。働こうor貢いでもらおうor金借りようor無限のやり方。PS4を手に入れたぞ!やった!
彼女が欲しい。出会いやらなにやらが必要だ。無限の方法。彼女を手に入れたぞ!わーい!
いい仕事に就きたい。無限。やったー!うれしー!わーい!
物や彼女や友達や、仕事や学校や境遇。みんな持ってますよね。
ここで言っているのはその中で、自分で欲しいなぁと思って手に入れたthingのことです。
「それを手に入れた自分」
と表現しました。これは目的のために行動をして、結果を得られた。そんなプラスのイメージのついた自分、のことです。自信とか誇りと言い換えてもいいかもしれませんね。
「好きだわ気に入ってるわー」、という言葉を使いましたね。
好きとか嫌い、というのはとても個人的なものです。自分がどう思うか。それだけで決まります。
客観的に見たら嫌いな人が多いかもしれないけど、俺は好きなんだよね。蜘蛛。
とか言われたらそりゃあもう仕方ねぇなぁと言うしかないわけです。
他人からしてみれば、自分の好き嫌いに関しては太刀打ちする事はできないのです。誰がなんと言おうと、私はピーマンが嫌いなわけです。あなただってそうでしょう?
好き嫌いというのは客観性と相容れない。
でもまぁ、好きとか嫌いとかいう主観的な感情はしかし、気分次第で移ろう可能性が高いものです。
あ、でもよく見たら蜘蛛キモいわ、やっぱ嫌いだわ。とか、
改めてピーマン食べてみたら案外美味かったわ。、とか
そんな事を言われたら、やっぱりそりゃ仕方ねぇなぁと思うしかないのです。
現在の自分に満足しているか?
現在の自分の境遇に満足しているか?
今までの人生で手に入れた物を愛しているか?
今までの人生を生きてきた自分を愛しているか?
つまり、これは自分で決めるものです。
そしてその決定は、私の好き嫌いの感情、なんていうものは、他人様には太刀打ちできないものなわけです。
さあ、ぼくらの失敗とは、自分で誇れるようなものを自分で手に入れる事ができなかった、というひとことで完璧なのです。
あなたは自分で手に入れた境遇に対して、「あぁ、頑張ってよかったなぁ」と思った事がありますか?
私は特にないです。
悲しいかな無いです。
ほら、他人任せの人生は送らない方がいいでしょう。
ひとつ希望として言えるのは、満足の先には何もない、ということくらいでしょうか。
行動力に溢れたわかものへ
今の仕事が筋肉仕事なので、合間合間にものを考える時間ができます。
いつもは昼休みなんかに、その日考えたことなどメモしておいて、夜家に帰ってから追記する感じでモノを書いているのですが、
そう、今日は特に何も考えなかったのです。
昼休みに思ったわけですね。あれ?書くネタがないぞ?と。
なぜかなぁ。と。
仕方ないので原因を探ってみました。いつもと今日で違う点はなんだったのでしょうか?
今日は少し忙しくはありました。しかしモノ書くネタなんていうものは、大概はその日のストレスを受け容れるために生成されるものです。正当化作業というか。まぁぼくにとってはそんな感じなのです。
その点、忙しい、なんていうのはまさにストレス要因です。モノを考えるための燃料なハズなのです。
じゃあなんなんだよもう、というはなしですね。なんと、このネタ出しの原文、書いていたのが金曜の昼休みだったのです。
その午前中、合間の時間には、休日に向けた具体的な行動予定を考えてました。それがどうも何も議題を思いつかなかった原因だったようです。
脳の余りリソース×取れた合間の時間=仕事中に妄想できる文章の量
この方程式がふんわりと浮かんできました。
何となく正しいように感じます。
この式に従って考えてみましょう。
今日は取れた合間の時間は同じでした。しかし、このプログのネタになるような文章の量は少なかった。
要するに脳の余りリソースが足りてなかったということになります。
ふむ。
具体的な行動予定を考える、というのは脳のリソースをとても多く使うようです。
要するにぼくが表明したいのは、具体的な行動予定を毎日ずっと考え続けてる行動的な人は、あんまり妄想する時間がなくてかわいそうだなぁ、という反抗的態度でした。なんとも悔しまぎれですね。
卒業の話
困るくらいに印象的な話がない。
卒業式の話をしたかったんです。こう、青春っぽいやつ。友達との別れ際、泣いたり笑ったりするような。
でもそんな体験はないんですよね。ただこう、1日が過ぎ去った、みたいな印象だけがあります。そもそもあまりよく覚えていないんです。
ただ何となく、卒業式の雰囲気には呑まれまい、俺は普通の1日を過ごすぞ、という意気込みはあったように思います。
反骨精神かもしれません。
そう考えると存外青春っぽい話ができて満足です。
今週のお題「卒業」
卒業って何なんでしょう。色々な意味で使われてますけど、元々、学校とセットで使われてた言葉ですよね。
学校の目的は、生徒に読み書きや社会常識や学力を習得させることです。
それを期限内に習得できた生徒を自由にすることがもともとの「卒業」の意味だったのかな、と推測します。
でも現在はもっと広い意味で使われてますよね。わたしもよく卒業しては後戻りしてます。
この場合は古い自分ルールを捨て、新しい自分ルールで生きようとしたけど、やっぱり新ルールを守れなかった。という意味ですが。
この新旧の概念が卒業という言葉の核になっている気がしますね。
明日は何かを卒業した話を書くことにしました。
序文
ついにブログを持ってしまいました。怖ろしい。私は怖ろしんでおります。
文章には人とナリが反映されるといいますね。
それは長文であればあるほど、多くの話題に触れればふれるほど、強く反映されていくものだと思います。
しかしながら短文であっても、文章というものには癖が出る。
このブログにはまだ200文字もかいてはいませんが、既に私の人格が、それはもうやんわりと浮かび上がっていることでしょう。
それを他人に晒す事の怖ろしさ。ゆえにブログなどできないのです。私には無理です。
それはそうと、文章を書くのは楽しいですよね。我慢しないで書きます。